zumafish's diary

忘れたくないこと

瓦を磨く

カエルは面白い。自分がそんなに大切なことをしているとは思っていない。しかし人間は禅堂で座っている時は自分が特別なことをしていると思うだろう。カエルは禅をしているという考えがあって座っているのではない。見ていると邪魔なことがあるとしかめっ面をし、食べられるものがくれば食べる。座禅の修行もこれである。別に特別なことではない。

 

座禅をして仏性を得ようとする人もいるが、それは瓦を磨いて宝石にしようとしているのと同じ。禅となるのは"自分"が"自分"になったとき。座禅のときも自分を失うことがある。眠くなったり、雑念が浮かんできて心がさまよい始めたら迷ってしまっていることになる。足が痺れたとき、"どうして痺れてしまったのか"と自分を見失い、問題となってしまう。自分を見失わなければ、色々困難はあっても、問題は一切ない。自分が問題となっても、自分が問題そのものと考えれば問題はない。

 

自分の人生が、自分の人生の一部であれば、言い換えれば、自分が今、ここで自分自身に呼び戻されるとき、そこに問題はない。自分から離れて、何かがあるという妄想にさまよい始めるとき、そのときあなたの周囲はもはや実在ではなくなる。自分が妄想に迷うときは、周囲もまた深い霧の幻想である。妄想の中は果てしない。自分の中の妄想の考えに次々に取り憑かれる。ほとんどの人は妄想の中に生きている。そして問題を解決しようとして、問題の中に巻き込まれる。しかし生きるということは問題の中に生きるということである。問題を解くには、問題の一部となることある。

 

いつも医者が自分の脈を診るようにして自分を呼ぶべき。問題に対処するには一途に取り組めば良い。瓦を宝石にすることは座禅の先にはない。宝石にすることが問題ではなく、ひたすら磨き続ける。

 

自分が自分であるとき、全てをあるがままに見る。そして周囲と一つになる。そこに真の自己となる。自分が自分であるとき、禅となる。